12年目の3月11日

Posted in Diary,Information by yano kiyomi on 3月 10th, 2023

12回目の3月11日、今年は被災地で迎えました。
コロナで行くことができなかった被災地に
今年は十三回忌によんでいただいて
サイレンと共に被災地の、みなさんと手を合わせることができました
2011年4月のはじめに訪れた場所、
たくさんのみなさんと出逢った場所を回りました。

最初は子どもたちと先生84名の方が犠牲になった
大川小学校です
北上川を通って震災直後は
この川に大きな家や橋桁やありとあらゆるものが浮いていました。
この日は当時5年生の子を、亡くされたお父さんが
静かに取材を受けていました
ここまで水が来たという印の上の方でお話会をされてもいました。
太〜い鉄の棒が大きな柱にぐるぐる巻いて
そのまま残ったわけですから
津波が山に当たってそこで渦を巻いた悲惨な跡が辛く悲しいです
大川伝承館には当時のことが分かる写真や資料、ランドセルがあります
私は2011最初に何度も通ると
泥だらけのランドセルが増えていく
そこにお菓子をお供えして手を合わせていました、
展示されてるランドセルはおばあちゃんが洗って綺麗にしたものです。
大川地区のみなさんは
ここは418名が亡くなったんだと
それも知って欲しいですと。

そこから5分ほどいくと
私の全てが始まった
雄勝地区です。
何より今は10メートルの防潮堤が
そびえ立ち三陸一の綺麗な海といわれた雄勝町には4300人だった人口は、
今は1,000です
そこにもうみんないないんです。
災害危険区域に指定されてしまって高台移転するしかなくて
だったら防潮堤はいらないでしょ
でも安心安全のために
みんなでて行ってしまいました。
お店もなく生活ができないと
そこでは私が最初に泥だらけの硯を拾って硯協会の澤村会長に逢って
いつか子どもたちとここでその硯で書を書いてと始まった
その澤村文雄さんさんも待っていてくれました。
もう一人警察庁で指示を出されていた警察官の野村さんもいました
みんなその時を想いみんなで黙祷を捧げました。
海がきらきらと穏やかで穏やかで
悲しみが深かったです。

14:46は香積寺という
当時行政とこのお寺が繋がって
私たちも炊き出しをここを拠点にさせていただいたお寺で
追悼碑が立ちそこに私の書絆が入っていて、
活動したたくさんの人の名前を刻んでくださっていて
サイレンと共に黙祷を捧げました。

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震災から数週間後にあるご夫婦が見つかりました
ご夫婦にはお子さんがいらっしゃらなくて、
昔は親戚からそれを責められていたそうです。
その時、小学校6年生の身元不明の女の子の遺体が発見され、
3人ご家族がなく、中村耕一と城南信用金庫のみなさんが参列しました。そこで
歌をやめると決めていた中村に、ご就職が歌いなさいと、
その歌を十三回忌法要でも歌いました。

もう一つどうしても行きたかった飯野川中学校
たくさーんの人に毎週炊き出しとパンツやシャツや駄菓子を持っていきました
おばあちゃんは痛いくらいぎゅっといつも握って離してくれなくて
見えなくなるまでありがとうー
また必ず来てーと手を振ってくれて

飯野川中学校の避難所は最後のお一人になるまで通いました。
体育館の扉を開けると、
障害で寝たきりの息子さんとお母さんがポツンと2人でいました。
みんないっちゃったの…私たちが最後、
今までありがとうねと……。

あの日あの時のおばあちゃん、おばちゃん子どもたち元気ですかーーーーー
逢いたいです。
まいにち想っています。

今夜は追分温泉に泊めていただきます。
震災直後、ランプでみなさんに寝る場所とお湯を提供された宿です。