「忘れない」
やっと書くことができる。
心が落ち着かなかった。
被災地から帰ってきて、毎日被災地で出逢ったみなさんの顔が浮かび
心の中で会話をしながら、この一週間を過ごしていた。
この一週間の間に、現地で見たことを、テレビとラジオとイベント会場で話しながら
本当につらい被災地のみなさんの心を繰りかえし想う。
名古屋で街頭募金を日本赤十字のみなさんと活動してきたことから
第二日赤医療救護班のみなさんの活動と現地の視察をさせていただくことになり
4月10日から
報道は点に過ぎない・・・
ただ、神はいるのだろうか・・・と心から思った。
道一本を隔てて、あまりにも変わる状況
一瞬の判断がこれほどまでに人の生き死を変えるのか・・・
日赤病院には日本中から医師・看護師・薬剤師の方々が集結している。
国際救護のエキスパートの伊藤あきこさんは一ヶ月も被災地にいてみなさんの身体と心を救っている。「私の心はいつも石巻にあるの」と微笑んだ。すごい女性だ。
医療スタッフの方や自衛隊の方もあまりに辛くて
温かな食事をとっていても現地を想い涙溢れ・・・PTSDになるとも聞いた。
日赤の救護班は避難所の周辺で暮らしている人々の巡回診療も行っている。
先生が「お体の具合はどうですか・・・」と優しくたずねると
「私たちには家がある、もっと大変なみなさんを診てください」と涙される。
そのみなさんも大切な人を津波で失ったのに、自分だけが・・・と家からも出ない。
東北の人はほんとうに温かで、ものすごく優しい。
ほんとうに優しい。
ラジオ石巻で働く武山さんという27歳の女性に逢いに行った。
ものすごく優しい女性。ものすごく優しい。
23分もラジオ石巻に出演させていただいた。
心から感謝します。
「元気な名古屋から、私たちは何ができるか・・を教えてほしくて」と武山さんに伝えると「元気でいてください。花見もやってください。想っていてください。」と答えをくれた。
武山さんも被災者だった。
「帰る家がないんです。津波で流されちゃったんです。」
震災の日から一ヶ月間、彼女はどこにも行かず・・行けず・・
ラジオ石巻で喋り続けた。
「どうして、そんなに頑張れるの」と聞くと
「私の町は壊滅状態の雄勝という町で、震災の日、雄勝の学校の先生が道なき道を歩いて、みんな大丈夫だとラジオで伝えてくれ・・・と来てくれたんです・・・だからずっと・・」
そう話す彼女に、私は何もいえなかった。
彼女の極限の辛さと悲しみは、簡単には「わかります」とはいえない
帰り際、武山さんは「いいことありますよね・・いつかご褒美ありますよね・・」
と呟いた。
それから明日(4月11日)はじめて家に帰ることも教えてくれた。
その日の夜、私たちに驚く奇蹟がおきた。
日赤医療班の次の日の行き先が急遽変更になった。
変更先は「
武山さんの町だった。
私は武山さんと連絡をとり、明日、雄勝に行くことを伝えた。
逢えた。また逢えた。
しかも、なにもかも流されてしまった武山さんの土台だけが残った家のまえで・・・。
「写真一枚も残っていないの・・・。でも涙もでない・・」
そう言って、武山さんは瓦礫の中から町の方々の遺影や写真を大切に拾った。
別れ際、武山さんは「この震災の悲劇を忘れないで」と呟いた。
忘れない。忘れない。忘れない・・絶対に・・
3日後、私は名古屋から武山さんに電話をいれた。
「自衛隊の方が私のアルバムを見つけてくれたの!」
武山さんの声がはずんだ。「矢野さん!私、今日が誕生日なの。ご褒美もらえたの。」
涙が溢れた。
おめでとう・・忘れられない日になった。
この忘れられない日が「ご褒美」がどうか、みなさんにたくさん届きますように・・・。
矢野きよ実
PS.
私ができることは話していくこと
伝えていくこと
繋げていくこと
そして、雄勝の硯で「書」をかきます。