2011年、陸前高田で最初に出逢った子どもたちから1月にお手紙が来てね、
「あの日力をもらって生きてこられたから春にお礼に名古屋に行きたい」と。
あの日小学校四年生だった子どもたちは、
この春高校を卒業して就職、大学と離れ離れになります。
名古屋に来てもらうんじゃなくて
私はこちらからみんなで逢いにいくねと約束して、それが3月7日でした。
でも新型コロナウィルスで行けなくなりました。
中止は辛いので延期。
東北の子どもたちは、就職、進学、みんな離れ離れ、仙台、盛岡、東京と。
次に集まることは難しいのは知っています。
悔しいです
逢いたかったー
子どもたち13人にお手紙と
無敵のお揃いのお茶碗を送りました
みんな〜逢いたかったー
逢って卒業おめでとうと言いたかったー
繋がっていることを伝えたかった
まいにち想っていることを伝えたかった
離れていても想っているからねー
みんなの幸せを!
卒業おめでとうーーー
東北の震災から9年です
震災直後から日本赤十字の報道の代表を仰せつかり被災地に入りました。
お医者様、看護師さん、薬剤師さん、そして私、宮城、福島、陸前高田…
満潮干潮、道無き道、自衛隊の方々の作られた道、
遺体捜査をされている中を通り、震度6を経験して
見てきた日々は地獄でした
まい朝、父の写真の前でほうじ茶をお供えして手を合わせます
あの日出逢ったきた子どもたちが
今日もいい日でありますようにと
たくさんの子どもたちの顔が出てきて、
一日たりとも忘れたことはありません。
忘れられないのですね
ものすごく力強い文字で「父」と書いた9歳の男の子は
立派な父ちゃんだねーというと
「うん、でも父ちゃん津波で流された」と呟きました。
隣で自分じゃないの名前を書く男の子、だれ、弟、今はいないけど
半紙いっぱいに「今、時間」と書いた男の子はお母さんが行方不明だった
「ひとりにしないで」と背中を向けて9歳の小さな女の子は書きました
「泣きたければ泣く 笑いたければ笑う」「泣」をいっぱいかいた女の子は
5人兄妹の末っ子でお母さんがいなくなった
彼女は
「自分の中から悪い気持ちが出てくるの」と言いました
小さな身体から
たくさんの心の叫びを聞いて
校長先生も大人たちも泣きました。
校長先生は
5メートル前までに真っ暗な水が来た
みんな逃げレーと言ってあの高台の公民館へ向かった
大丈夫お父ちゃんお母ちゃんくるからと、
でも2日経っても3日経っても家族が来ない子どもたちがいて……
だから
きよ実先生、怖いけど子どもたちの心のうちを聞いてね
私たちは話せなくて
こうして
私たち無敵プロジェクトのメンバーは教育委員会や校長会から仰せつかり、
たくさんの子どもたちのもとへ書の授業に行き
今も何千枚の書を預かっています
震災の年2011年10月11日
陸前高田で最初に
に出逢った子どもたち。
辛い気持ちを、怖くて仕方がない気持ちをだれにも話せず、大人の前では笑っていた、9歳・10歳の子供たち
「父」と書いた9歳のやすくんは
私にその「父」の書を渡して
「ここに書いたら父ちゃんいるからみんなにみせてといった、」だから
何百件の講演会でみんなの書を見せて気持ちを伝えています
彼の顔が 心にずっと一緒にいます
みんなの笑顔がはなれない
「先生ありがとう!」と私が抱きしめてもらった
みんなの小さな手の感触を忘れない
あの日
子供たちは見えなくなるまで走って走って…手を振ってくれた。
陸前高田の子供たちは陸前高田が大好きで、
みんなが「一本松」と大切にかいて、
みんなが「命」と書いた
「生きる」と書いた
「家族」と書いた
「友達がいる」と書いた
「一人じゃないみんないるよ」と書いた
「負けない」「信じる」「海」「家」「流れる」・・・
校長先生は「未だ 震災のことに一度もふれられないんです」と
何度も話された
子供たちの心の叫びをはじめて書でみて大人たちは泣きました。
被災者ではない私たちはよそ者でね、
よそ者だからみんなが話してくれてね
とにかく元気でいなきゃ
そして行かなきゃって何十回も行きました。
無敵プロジェクト
無敵プロジェクト
陸前高田のメンバー
馬渕雄二
佐々木良典
中村耕一
村田知穂
田島帆乃香
新田輝夫
大塚さん
山藤さん
日裏達也
大門しゅんすけ
村田宣治
長谷川匡紀
みつくんnobodyknows+
加藤宏樹
伊藤亀堂
三竹辰弥
加藤正史
加藤友美子
坂口剛
内藤聡
矢野一喜
城南信用金庫のみなさん
津村慎太郎(日本赤十字)
清水さん(日本赤十字)
高瀬美雪
鈴木一泰
木庭英之
村竹さん
川端康人
西浦志乃(名古屋市)
石原さん
-祭り-
嘉門達夫さん
秋野暢子さん
nobodyknows+
爛漫プロジェクト
藤澤裕子
柴田賢治
山田千津子
山田麻琴
伊藤久美子
尾之内智美